メロディーロードに向かう途中、草の上でおネンネ
標津町・メロディーロード
根室半島に向かう途中、「メロディーロード」に寄りました。
車で走ると音楽が流れるように道路に溝をつけたメロディーロード、
時速60キロで走ると「知床旅情」が流れます。
僕は勘違いしてて、40キロで3回走ったんですが
確かに超スローな知床旅情がおぼろげながら聞こえてきました。
60キロで走ってたらどうだったんだろ?
事前の学習(情報)は大切ですw
知床半島から一気に根室半島を目指し車のエンジンをかけた
のぶひろですが、メロディロードを通過して
まずは標津町 「北方領土館」に立ち寄りました。
ここも国後島が目の前(24キロ先)に横たわっていて、
望遠鏡でクナシリが望めました。
望遠鏡に映った国後島の島影
「標津町・北方領土館」
いろいろな展示やパネルがあって、
北方領土問題の基本的な勉強(おさらい)には
もってこいでした。
入口脇には領土返還要求署名コーナーが
ありましたので、当然署名をいたしました。
一日で納沙布岬まで行く予定なので、
北方領土館は30分程度で切り上げ、
また一路根室半島を目指しました。
根室市内に入り、昼飯でエスカロップを食したあと、満を持して、
「北方四島交流センター ニ・ホ・ロ」へ入りました。
「ニ・ホ・ロ」の意味は
日本(ニ)とロシア(ロ)をつなぐ北海道(ホ)の
交流拠点施設という意味だそうです。
ちょうど入口に
「ビザなし訪問 結団式様」という看板があって、
実際にビザなし訪問結団式が行われていました。
僕はいやが応にもここが北方領土問題の現場なんだという
緊張感を感じました。
ロシア文化ルームにあったロシア軍将校の帽子を被る僕のぶひろ
「北方四島交流センター ニ・ホ・ロ」は
北方領土問題についての国内外の世論を盛り上げるための施設ではありますが、
館名の通り、主語がにほんとロシアの“交流”になっていて、
映像や展示はにほん人とロシア人が仲良くしているものがほとんどですし、
日本語、ロシア語、英語それぞれで解説がありました。
館内にいるとロシアや北方四島に住むロシア人のことが
好きになってしまうような雰囲気です ^^
武力的な解決ではなく、日本は政府も国民も平和的な解決を望んでいる
わけですので、日露平和条約と北方領土返還をセットにするためにも
北方領土の不法占拠や戦後のシベリア抑留などからくる憎悪ではなく、
まずは草の根の友好で相互理解を深めていくという
日本の考え方がハッキリとわかります。
(ビザなし交流の発案はロシア側からだったそうです。)
日露戦争や第二次大戦、米ソ冷戦など歴史的に見てもそうですし、
今回のグルジアでの軍事行動なんかを見ても、
ロシアと言う国は元来かなりしたたかで、
領土に対する譲歩は現時点では実質的には何もありませんが、
このような地道な活動は将来かならずや日露両国に
大きなメリットを与えるとは思います。
ただ、法律の時効の考え方と同じですが、
時間が経てば経つほど、様々な事実関係が積み重なり
日本側に北方領土をふるさととする人もいなくなり、
逆に北方領土をふるさととするロシア人が増えていきますので
問題の解決はドンドンと難しくなっていくわけです。
そもそもロシアは北方領土に軍事的、経済的な意味を見出している
わけでもありますのでこの問題はまったく楽観できず、
むしろ悲観的ですらあると考えていたほうが間違いがないと僕は感じました。
一言で言うと、
10年、20年では返還が難しいのではという予感です。
50年、100年単位での話にどうもなっていってしまうのでは?と感じます。
僕は賛成しませんが
戦争で失った領土は戦争で取り返すしかないというのが
国際社会の暗黙のルールといった考え方も現実にはありますので
なかなか北方領土問題の外交交渉での解決は難しそうです。。。
・・・と
せっかく領土問題を現地で学んだとしても
自分自身にはその問題解決のためのアクションがとれませんので
このつたないブログに感じたことをそのまま記して
1人でも多くの人にこの問題の存在を伝えることはもちろん、
アクションができる他の同胞に何とかしてこの現実が伝わればと思っています。
国際問題、政治問題というものは
なかなか理想だけ、民間だけでは解決できないものですので難しいです。
でも、そんなネガティブなこと言ってたって始まらないですし、
北海道には本気になって全身全霊で返還運動に挺身している
方々がたくさんいらっしゃるわけですから
草の根の友好で相互理解を深めていくという
今のやり方がやはりベターなんだと思いますし、
ここにこそ活路を見出せる可能性があるんだと思います!!
「ニ・ホ・ロ」には日本政府の要人もたくさん来ているようで、
小泉さんはじめ要人たちの来館時の写真パネルがありました。
新世紀
日ロの英知で
四島(しま)返還
知床から根室まで一気に走ったので
車の前にハチさんが挟まってしまっていました。
ハチさんゴメンね~
北方原生花園にいたお馬さん
(右)珸瑶瑁漁港(ごようまいぎょこう)から見えた納沙布岬
納沙布岬近くの珸瑶瑁漁港(ごようまいぎょこう)
納沙布岬で記念撮影する僕のぶひろ
カモメが大合唱する納沙布岬からすぐそこに見える「歯舞群島」
(右)北方四島をイメージして造られたモニュメント「四島のかけ橋」
納沙布(のさっぷ)は人情岬♪♪
僕たちの世代ではとんねるずの「人情岬」って曲を
覚えている人も多いと思います。でも、現実は
納沙布はロシアに不法占領されている北方領土「歯舞群島」を
目の前に望む「北方領土返還」を祈念するために場所なのです。
このカモメの声が鳴り響く
納沙布岬に立って最初に感じることは
「近ーーーい」
「近ーーーーーーーい」
「近ーーーーーーーーーーーーい」
ということです。
北方領土近すぎます!
近すぎです!!
水晶島、勇留島、萌茂尻島など歯舞群島が
肉眼ですぐそこに見えます。
ほんのすぐそこなんです!
泳いでもなんとか渡れそうな距離に
“外国(ロシア)”があるわけです。
これは実際にここ納沙布岬に立たないと
実感できないと思います。
僕自身も25年近く前から領土問題について
興味は持っていましたが
まさかここまで近いとは感覚として
理解できていませんでした。
これはビックリです。
日本から一番近い外国は韓国だと思っていましたが
文句なしにロシアが近いです。
ロシアはすぐそこです。
しかもその四島(しま)は本来はわが国固有の領土なのです。
(左)花咲灯台 車石 (右)花咲灯台から見た根室の夕日
夜は今度は
本場・根室の「花咲ガニ」を食しました。
「花咲ガニ」は甲羅にトゲが多く、なんとキッチンバサミを使って、
バラして食べました。身がやわらかくって、
独特の甘みもあっておいしかったですよ~
★北方領土関連リンク
★知っていますか?日本の北方領土
-北方領土は日本固有の領土です-
(北海道庁のパンフレットから引用)
◆北方領土問題とは?
日本とロシア連邦との間には、
第二次世界大戦の終了後60年以上にわたって
未解決の領土問題が存在しています(=「北方領土問題」)。
私たちが「北方領土」と呼んでいるのは、
北海道本島の東方に近接する四つの島々、
すなわち択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の
「北方四島」です。
北方領土は、日本国民が父祖伝来の地として
受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土となった
ことがない日本固有の領土です。
1855年の日魯通好条約により、当時、択捉島とウルップ島の間に
自然に形成されていた国境線が法的に画定され、
北方四島は日本の領土として平和裡に確定されました。
しかし、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、
ソ連邦は、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して
対日参戦し、8月14日にわが国がポツダム宣言を受諾し
降伏の意図を明確に表明した後、8月28日から9月5日までの
間に四島のすべてを不法に占領してしまいました。
当時、これらの島々には約1万7千人余りの日本人が暮して
いましたが、1949年までに日本人島民全員がソ連により
強制的に退去させられました。
1951年(昭和26年)、日本は、連合国48カ国とサンフランシスコ
平和条約に署名しましたが、ソ連は同条約への調印を拒否しました。
このため、日本とソ連との間で個別の平和条約を結ぶための交渉が
始まりましたが、平和条約の内容となるべき重要な問題の中で、
領土問題が未解決のため、現在も、日本とロシア連邦との間では
平和条約は締結されておらず、北方四島はロシア連邦によって
不法に占拠されたままとなっています。
私たちは、日本固有の領土である北方四島の帰属の問題を
解決することにより平和条約を締結し、日本にとって重要な
隣国であるロシア連邦との間に真の相互理解に基づく安定的な関係を
確立することを願っています。
◆北方四島の帰属を巡る歴史
1.
日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び
歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、
徐々にこれらの島々の統治を確立しました。1798年には幕府の役人が
択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建て、日本の領土であることを
示しました。また、ロシアの勢力が択捉島の北隣のウルップ島より
南に及んだことは一度もありませんでした。
2.
1855年に日本とロシアの間でまったく平和的、友好的な形で
調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた
択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。
それ以降も、北方領土が他国の領土となったことは一度もありません。
3.
1875年に締結された樺太千島交換条約は、
日魯通好条約で国境を定めず、日本人とロシア人の混在の地とされた
樺太をロシア領とすることとし、千島列島を日本領としました。
同条約は、千島列島として18の島の名前をすべて列挙していますが、
北方四島はその中に含まれていません。
これは元々日本領である北方四島が、当時すでに千島列島とは
明確に区別されていたことを物語っています。
4.
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、ソ連は、
当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、
8月14日に日本がポツダム宣言を受諾して
降伏の意図を明確に表明した後、
千島列島への侵攻を開始し、続いて
8月28日から9月5日までの間に北方四島の
すべてを占領しました。
※北方四島はアメリカ軍が進駐していないことを
知ったソ連軍の別働隊が北方四島を占拠
5.
当時北方四島にはロシア人は一人もおらず、
日本人が四島全体で約1万7千人住んでいましたが、
ソ連は1946年四島を一方的に自国領に編入し、
1949年までにすべての日本人を強制退去させました。
このとき、北方四島から退去させられた島民の
8割は北海道本島に居住しました。
6.
1951年のサンフランシスコ平和条約で、
日本は千島列島を放棄しましたが、
放棄した千島列島の中にわが国固有の領土である
北方四島は含まれておりません。
また、ソ連はこの平和条約への調印を拒否しました。
なお、サンフランシスコ平和条約の起草国である
米国は、北方四島は常に固有の日本領土の一部を
なしてきたものであり、かつ、正当に日本の主権下に
あるものとして認められなければならない旨の公式見解を
明らかにして、日本の立場を一貫して支持しています。
◆日本とロシアの国境線の取り決め
◇1855年(安政元年)- 日魯通好条約
1855年、日露両国が調印した「日魯通好条約」で、
国境は択捉島とウルップ島の間と定められました。
◇1875年(明治08年)- 樺太千島交換条約
1875年、日露両国が調印した「樺太千島交換条約」で、
日本が樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を
譲り受けました。
◇1905年(明治38年)- ポーツマス条約
日露戦争の戦後処理のため、1905年、日露両国が米国の
ポーツマスで調印した「ポーツマス条約」により、
北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。
◇1951年(昭和26年)- サンフランシスコ平和条約
1951年、「サンフランシスコ平和条約」で、
日本は、南樺太及び千島列島に対する権利を放棄しました。
※放棄した千島列島に北方四島は含まれていません。
◆北方領土の位置、面積
択捉島
面積:3184k㎡
北海道本島からの距離:144.5km
1945年当時の人口:3,608人
アイヌ語で「岬のあるところ」という意味
国後島
面積:1499k㎡
北海道本島からの距離:16.0km
1945年当時の人口:7,364人)
アイヌ語で「草の島」という意味
色丹島
面積:253k㎡
北海道本島からの距離:73.3km
1945年当時の人口:1,038人
アイヌ語で「大きな集落のある地」という意味
歯舞群島
面積:100k㎡
北海道本島からの距離:3.7km
1945年当時の人口:5,281人
アイヌ語で「流氷のある島」という意味
政治ブログアンケート掲示板
漁船拿捕、プーチン大統領の発言等の報道で、
昨今注目されている北方領土問題です。
振り返るに、第二次大戦終期、当時のソ連は日ソ不可侵条約を破棄し
樺太カムチャッカ両方面から我が国に攻撃を仕掛け、
降伏後も尚侵攻を続けこの方面を占領し、今尚これを続けています。
そこでアンケートです。
我が国がロシアに対して返還要求すべきなのは、
下記選択肢のいずれとお考えですか?
・返還要求すべき領土はない
・歯舞群島と色丹島
・2.に国後・択捉両島を加えたいわゆる北方4島
・2.と国後島から占守島までの全千島列島
・4.と南樺太
↓↓↓↓↓
▼今回の北海道旅行コース
北方領土問題とニホロ、納沙布岬
釧路川ボート下り(湿原川下り)とザリガニ釣り
(参考1)
前回/ 早春(2007年5月)のルートです
↓釧路・釧路湿原(ノロッコ号)・和商市場 勝手丼
↓阿寒湖(マリモ)・アイヌコタン(アイヌ古式舞踊) ※まりもっこり
(参考2)
前々回/ 冬(2007年2月)のルートです
↓ノトロ湖・サロマ湖
↓摩周湖
↓網走(オホーツク流氷まつり&網走監獄)
(参考3)
春(2007年5月)仕事帰りのルートです
↓拓真館 - 美瑛・前田真三写真ギャラリー
冬(2001年4月)
↓支笏湖で北海道を満喫、すごーく美しい湖
秋(2000年10月)
↓函館大門ぎおん通
(参考4)
・プーチン来日。でも北方領土は戻らない(ロシアは返さない)
・靖国神社 遊就館のゼロ戦 - 三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
・8月15日 終戦記念日: 靖国神社の献木 「さらば湖南よ」歩兵第百三十三聯隊 戦友一同
・昭和18年 宮崎県鵜戸神宮社前にて 中村肇少将(輜重兵監)と陸軍輜重兵学校の仲間たち
・SEALDs(シールズ)… 国会前デモ、日本の学生や若者が立ち上がった
・JYMA 日本青年遺骨収集団(ガダルカナル島自主派遣)からクラウドファンディングの寄付へお礼の絵葉書
・夏の終わり、蝉時雨の靖国通りを歩く
・九段・靖國神社の八重桜と、新緑と、青空と。
・映画「永遠の0(ゼロ)」感想 享年26歳、命輝かせた特攻隊員
・「 TOKKO -特攻- 」感想 KAMIKAZE(命の再生)
・「嗚呼、八月十五日」 伸弘君へ村雄より。
・戦後60年。今井雅之さんの情熱舞台「 THE WINDS OF GOD 」
村内伸弘@ムラウチ ドットコム
「領土問題 / 竹島・尖閣諸島・北方四島」 …ブログコミュニティを見てみる
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