“忘れられない、20世紀の爪あと。”
“夜はみんな、杖を持って歩いた。死体を踏まないためだった。”
恒久平和祈念。
那覇空港からいちばん近い戦跡地、
「旧海軍司令部壕」を慰霊を兼ねて訪れました。
ここは沖縄戦当時、日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕です。
この場所で戦闘は行われなかったので
当時の姿をそのまま今に残している戦跡になります。
今までにこの壕から約2400人もの遺骨が収集されているそうです。。。合掌
旧海軍司令部壕
105段、30mほどの階段を降りて壕に入ると、
狭い通路の脇に幕僚室、作戦室、医療室などの部屋が
ところどころ造られています。
ぼんやりとした黄色っぽい灯りの下、歩いていると
壕の途中、司令官大田實少将の言葉
「沖縄県民はこのように戦いました」が掲げられていました。
そのパネルの前には多くの人が立ち止まっていて、
皆一心にこの文章を読んでいました。
沖縄県民はこのように戦いました 大田司令官の電文
昭和20年6月6日20時16分発 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう、取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、 県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと 認められますので、私は県知事に頼まれたわけではありませんが、現状をそのまま 見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたしします。
沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、 県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、 私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、 残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、 わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、 砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、 砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。 敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されて しまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、 身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の 感情にかられてのこととは思えません。 さらに、軍において作戦の大きな変更があって、 遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を 黙々と移動しています。
これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、 県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという 一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえ すべてが焼けてしまい、食べ物もも6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。
県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
「県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。」
という、大田司令官の結びの言葉を
僕たち日本人は一生心に留め、忘れてはいけないと思います。
旧海軍司令部壕・司令官室
その大田司令官が最期に拳銃自決を遂げた司令官室が
当時のまま、保存されていました。
大田司令官たちは、まさに烈々たる日本人と呼べるでしょう。
▼海軍壕司令部(旧海軍司令部壕)
沖縄県豊見城市豊見城236 ※那覇空港から車で15分
098-850-4055
8:30~17:00
年中無休 P有
海軍司令部壕 JAPANESE NAVY UNDERGROUND HEADQUARTES 昭和19年(1944年)、日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた 司令部壕で、当時は450mあったと言われています。 カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、 米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、 4000人の兵士が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、 数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年(1970年)3月観光開発事業団によって 司令官室を中心に300mが復元されました。 (海軍司令部壕パンフレットより)
▼沖縄戦による全戦没者数
200,656名
日本側(188,136名)
・他都道府県出身(軍人軍属)
65,908名
・沖縄県出身(軍人軍属)
28,228名
・沖縄県出身(戦闘参加者)
56,861名
・一般沖縄県民(推計)
37,139名
米軍側(12,520名)
▼沖縄戦で米軍が使用した砲弾数(1945年4月1日~6月30日)
2,716,691発
当時の沖縄県民 57万4368人で割ると 1人に対し、
4.72発の砲弾を使用したことになる。
上記の数字、
ものすごい数ですよね。。。
レジャーやバカンスで沖縄を訪れる時でも、
皆さん、ぜひ最低一ヶ所は慰霊を入れていただければと思います。
PS
11/30に大阪府の橋下知事が
普天間移設問題で、
「沖縄には多大なご負担をかけたので、本州の人間は十分配慮しないといけない」と、
関空受け入れを検討することを語ったそうですが、
賛否両論があると思いますが、
沖縄戦の本質と歴史的意義を深く理解した
ものすごい立派な発言だと思って心から感動しました。
(参考)
・真南風プラス(沖縄観光情報WEBサイト)
・靖国神社 遊就館のゼロ戦 - 三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
・8月15日 終戦記念日: 靖国神社の献木 「さらば湖南よ」歩兵第百三十三聯隊 戦友一同
・昭和18年 宮崎県鵜戸神宮社前にて 中村肇少将(輜重兵監)と陸軍輜重兵学校の仲間たち
・SEALDs(シールズ)… 国会前デモ、日本の学生や若者が立ち上がった
・JYMA 日本青年遺骨収集団(ガダルカナル島自主派遣)からクラウドファンディングの寄付へお礼の絵葉書
・夏の終わり、蝉時雨の靖国通りを歩く
・九段・靖國神社の八重桜と、新緑と、青空と。
・映画「永遠の0(ゼロ)」感想 享年26歳、命輝かせた特攻隊員
・「 TOKKO -特攻- 」感想 KAMIKAZE(命の再生)
・「嗚呼、八月十五日」 伸弘君へ村雄より。
・戦後60年。今井雅之さんの情熱舞台「 THE WINDS OF GOD 」
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村内伸弘@ムラウチ ドットコム♣
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