烈々たる日本人 (ぼくらの先輩たち)

まもなく衆議院選挙が公示されますが
小泉純一郎首相、殺されてもいい気構え」という記事を書いたときに
「浜口首相は遺書を常に携帯していた」というコメントを頂きました。
(「気合いだーッ」のアニマル浜口じゃないですよwww)

その後気になって気になって、
ペリー来航の嘉永6年(1853年)以降、戦死者を除き
いわゆる畳の上で死な(ね)なかった人達を調べてみました。

一命を取り留めた人も含まれますが、
まさに烈々たる日本人といった感じです。

良きにつけ悪しきにつけ
わが国がたどってきた歴史の重みと
指導者たちの存在感やその運命(死に様)に圧倒されます。

のぶひろは成人してから、ありとあらゆる選挙に
100%投票に行っています(行かなかったことは一度もありません、エッヘンw)。
今回も、皆勤賞を続けて日本国民として一票を投じようと思っています。
そうです、遺書を懐にするような気概をもつ候補者を見極めるのです。


それでは、ぼくがリスペクトする吉田松陰先生からスタート!!

・吉田松陰
 安政6年(1859年)、安政の大獄で刑死
 「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

・大老 井伊直弼
 安政7年(1860年)、桜田門外の変で暗殺

・老中 安藤信正
 文久2年(1862年)、坂下門外の変で遭難

・吉田稔麿
 元治元年(1864年)、池田屋事件で討ち死

・久坂玄瑞
 元治元年(1864年)、禁門の変に敗れ自刃

・井上馨(聞多)
 元治元年(1864年)、山口湯田温泉・袖解橋で遭難

・佐久間象山
 元治元年(1864年)、京都木屋町通りで暗殺

・坂本龍馬
 慶応3年(1867年)、京都近江屋で暗殺
 「ほたえな!」

・中岡慎太郎
 慶応3年(1867年)、京都近江屋で暗殺

・江藤新平
 明治7年(1874年)、佐賀の役で刑死

・岩倉具視
 明治7年(1874年)、赤坂喰違の変で遭難

・西郷南洲
 明治10年(1877年)、西南戦争に敗れ自刃
 「もう、ここらでよか」

・大久保利通
 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で暗殺

・板垣退助
 明治15年(1882年)、岐阜で遭難
 「板垣死すとも自由は死せず」

・大隈重信
 明治22年(1888年)、外務省門前で遭難、片足を失う

・伊藤博文
 明治42年(1909年)、ハルピンで暗殺

・原敬
 大正10年(1921年)、東京駅で暗殺

・浜口雄幸
 昭和5年(1930年)、東京駅で遭難
 「男子の本懐」

・井上準之助
 昭和7年(1932年)、血盟団事件で暗殺

・犬養毅
 昭和7年(1932年)、5・15事件で暗殺
 「話せばわかる」「問答無用」

・高橋是清
 昭和11年(1936年)、2・26事件で暗殺

・東条英機
 昭和23年(1948年)、東京裁判で刑死

・広田弘毅
 昭和23年(1948年)、東京裁判で刑死

・河上丈太郎
 昭和35年(1960年)、衆議院面会所で遭難

・浅沼稲次郎
 昭和35年(1960年)、日比谷公会堂で暗殺

・金丸信
 平成4年(1992年)、足利市民会館で狙撃

(おまけ)
・織田信長
 天正10年(1582年)、本能寺の変、紅蓮の炎の中で自刃
 「是非に及ばず」

忘れられた日本人

(参考)
「僕は唱歌が下手でした」

九段・靖國神社の八重桜と、新緑と、青空と。

吉田松陰・留魂録(講談社学術文庫)

吉田松陰 留魂録、150年前の10月27日。

「覚悟の磨き方」 超訳 吉田松陰 不安と生きるか。理想に死ぬか。


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