「吉田松陰 留魂録」 講談社学術文庫 - 古川 薫
青空をバックに。今朝は台風一過、富士山がきれいで、旭(朝日)がまぶしかったです。
安政6年(1859年)10月27日、 吉田松陰は小伝馬上町牢の刑場で、 波瀾に充ちた30歳の生涯を閉じた。 「留魂録」を書き上げた翌日である。
「留魂録」は門下生たちのあいだでひそかに回覧され、 写本となって松門の志士たちの聖書ともなった。 その諄々と教えさとす語調は、 たしかに死の瞬間まで教師であろうとする 松陰の遺書といえた。
彼は種を植えつけて処刑された。 先駆者の役割は、すでに果たされており、 死そのものが、最後の教訓として 門下生を奮いたたせたのである。
古川 薫
2002年9月10日 第一刷 講談社学術文庫 「吉田松陰 留魂録」 史伝・吉田松陰より引用
松陰忌。
太陰暦と太陽暦で違いはありますが
150年前の今日10月27日、
吉田松陰先生がこの世を去りました。
僕のぶひろも20代の頃から
松陰先生の書物を読んだり、
松陰先生ゆかりの地を実際に訪れたりして、
その精神を学んできたつもりですが、
おそらく今頃、松陰先生は
笑っていると思います。
口ばっかりで、行動ができない
僕のことを笑っていると思います。
尾崎豊じゃありませんが、
夢を失い、愛を弄びがちな
僕ら現代人のことを笑っていると思います。
改めてもう一度、
松陰先生の遺書「留魂録」を読んで
奮いたって駆け出した門下生たちを見習います!
口先だけの男は最低です、
松陰先生や門下生のみんなの
爪の垢を煎じて飲むつもりでがんばります!
のぶひろ往け、月白く風清し!!
村内伸弘(のぶひろ)に 行動を求める吉田松陰先生
志士は溝壑にあるを忘れず
(志士は頸首所を分つことを恐れず、溝壑に填まり長く終に反すことを得ず)
※溝壑の死: 志士は道義のためなら、窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟している。
(参考1)
古川薫さんの 「吉田松陰 留魂録(講談社学術文庫)」は、
僕の座右の書であり、本当に会社の机の上左端に置いてあります。←2002年9月10日第1刷
数ある吉田松陰本のなかで、僕はこの本が間違いなくNo.1だと思います。
↓↓↓↓↓
僕は本を読むときに、下記 1、2、3の本しか読みません。
1. 歴史上の人物や一流の人物本人が書いた本
2. 1.の人物の弟子・秘書・家族など身近な人が書いた本
3. 1.の人物を真に理解できる素養を持った人が書いた本
この本は松陰先生本人の書いた留魂録の原文が
丸ごと載っていますので 1.に完全に当てはまります。
また、古川薫さんはこの 3.に間違いなく当てはまります、
まえがき、はじめに、解題、注、留魂録現代語訳、
史伝・吉田松陰、あとがきなど古川さんが書いた文章は
深い松陰理解そのものです。
松陰精神の伝道者・古川さんの一世一代の作品が
この講談社学術文庫版・留魂録だと思います。
▼文庫本 裏面 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂
志高く維新を先駆した炎の思想家吉田松陰が 安政の大獄に連座し、牢獄で執筆した「留魂録」。 愛弟子へ切々と訴えかける最後の訓戒で、 死に直面した人間が悟り得た死生観を書き記した 格調高い遺書文学の傑作を味読・精読する。
(参考2)
・世田谷若林の松陰神社 長州藩士・吉田松陰先生のお墓にお参り
・「覚悟の磨き方」 超訳 吉田松陰 不安と生きるか。理想に死ぬか。
・゚.+:。 高杉東行、全身全霊 ゚.+:。 - 高杉晋作、功山寺挙兵の日
・酔題馬関旗亭壁(伊藤博文の漢詩) & ポーツマスの旗(伊藤博文の名場面)
村内伸弘@ムラウチ ドットコム♣