「春帆楼」
>しゅんぱんろう ということばには
>春のかがやきたつ 光彩がある
しゅんぱんろう。
とっても美しい響きですね。
伊藤博文が春の海の帆船を心に描いて名付けたそうです。
明治ニッポンが迎えた初めての大規模な対外戦争、
日清戦争の講和会議が開かれた場所が
ここ下関・春帆楼なのです。
(日清講和条約 / 馬関条約、下関条約)
当時の春帆楼は昭和20年(1945年)の下関空襲で焼けて
しまったそうですが、春帆楼横の日清講和記念館には
当時を偲ぶテーブルや椅子、机、条約調印書のコピー、
伊藤博文や交渉相手の李鴻章の遺墨などが展示されていました。
講和会議後にこれらの展示物は
一旦下賜されていた関係で焼けてしまった
旧春帆楼にはなく、かえって
今日のその会議の様子を伝えることができたそうです。
分散しておくというのは大切なことかもしれませんね、
ポートフォリオですよ、今風に言えばw
「ポーツマス講和会議のときの小村寿太郎」と
並ぶ有名な歴史的シーンですね!
伊藤や陸奥は李鴻章を海(関門海峡)が見える側に座らせ、
会議の休憩時間などに清側(中国側)に見えるように
軍艦を勢いよく走らせたりしたそうです。
えげつないようですが、当時の日本の指導者の
国家経営に対する真剣な様子が伺えます。
日清講和記念館の脇に
伊藤博文公と陸奥宗光伯の胸像がありました。
なかよく並んでいましたが、
特に後から眺めた二人の姿は
じつに微笑ましく、うらやましくも感じました。
日清戦争という大仕事を終えた男二人のうしろ姿、
いいですねぇ~(^^)
銅像は時々、うしろ姿の方が良いときがありますネ。
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ちなみに、明治21年(1888年)、
時の内閣総理大臣だった伊藤博文が
この春帆楼で”ふく料理”を食べ、
「一身よく百味の相をととのえ」と絶賛、
太閤・豊臣秀吉によって禁止されていた
”ふく料理”を解禁したそうです。
そして、「ふく料理公許第一号」の栄誉を担ったのが、
ココ「春帆楼」だったということなのです。
※下関の人々は「ふぐ」と発音が濁ることを嫌ったそうです
「ふく」は「福」、 「ふぐ」は「不遇」だそうです(^^)
伊藤と陸奥の銅像の裏からはお隣の
朱塗り鮮やかな赤間神宮(旧阿弥陀寺)へ通じる小道があり
1分もかからず移動ができます。
そして、そこには
壇ノ浦の戦いで壇ノ浦の海底に沈んでいった
あの悲劇の幼帝・安徳天皇の御陵がありました。
(昔は安徳天皇の御影堂と呼ばれていたそうです。)
平清盛の妻の二位の尼(安徳天皇の祖母)に抱かれて
入水した安徳天皇、平家滅亡のまさにその瞬間になります。
「お婆さま、どこへ私を連れて行くのですか?」
まだ数え年で8歳の安徳天皇があどけない声で聞きました。
「この波の下に、極楽浄土というところがあるのですよ。
さあ、一緒にそこへ参りましょう。」
二位の尼は、安徳天皇をしっかりと抱きしめて
渦巻く波の中へと消えていきました。
今ぞ知る 御裳川(みもすそがわ)の 御ながれ
波の下にも 都ありとは (二位の尼 辞世)
馬関(下関)は日本史を彩る数多の歴史の舞台なのです。
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(参考)
酔題馬関旗亭壁(伊藤博文の漢詩) & ポーツマスの旗(伊藤博文の名場面)
村内伸弘@ムラウチ ドットコム
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