品川区西大井6丁目・伊藤博文の墓所 (のぶひろ撮影)
墓所内の敷地に立つ伊藤博文の銅像
雨に濡れる伊藤博文の墓(コンクリート円墳墓)
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「大勲位伊藤博文公墓所」 というと堅苦しい感じですよね、
初代内閣総理大臣・伊藤博文のお墓のことです。
先日の公開日に行ってきました、
鳥居の中に立派な円墳墓がありました。
事前調査では調べられなかったのですが、
博文よりこじんまりした梅子夫人の円墳墓も仲良く
並んでいました。
明治日本を大きく前進させ、
発展させた偉大なる総理大臣も内助の功に優れた
梅子夫人と一緒に並んでさぞかしうれしいんでしょうね(^^)
伊藤博文夫人・梅子夫人の円墳墓
20代の頃、山口県の熊毛群にある「伊藤公記念館」へも
行ったことがありますが、やはり伊藤博文といえば
明治憲法(大日本帝国憲法)草案の作成や
初代内閣総理大臣として有名ですよね。
日清 ・日露の戦争指導や
立憲政友会総裁として政党政治への道を
開いたことも忘れてはいけないことだと思います。
それから実はこれらの輝かしい功績に隠れてしまって
忘れられているのが高杉晋作の“功山寺挙兵”への参加です。
元治元年(1864年)12月15日、
藩論回復のため、命懸けの藩内クーデターを起こした
晋作と行動をともにすることをいち早く表明し、
同じく命懸けでこの挙兵を成功させたのが博文だったのです。
総理大臣にまで上り詰め、歴史に残る大人物も
功成り名を遂げる前の若い時分に
この戦いで命を落としていたのかもしれません。
逆説的には、こういった歴史的な作戦に
死を覚悟して臨む人物に天は
その後の歴史を担わせたとも言えるでしょう。
男児たるもの、ここぞという場面では
己の信じる行動に生命を捧げるぐらいの気概を持ちたいものです。
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(左)「立憲政友会」と書かれた大きな石灯籠
(参考)
酔題馬関旗亭壁(伊藤博文の漢詩) & ポーツマスの旗(伊藤博文の名場面)
烈々たる日本人 (ぼくらの先輩たち) 伊藤博文 明治42年(1909年)、ハルピンで暗殺
「大隈重信哀悼号」 實業之日本 大正11年2月1日発行 伊藤博文、山県有朋、福沢諭吉らの人物像
五日市憲法が眠っていた深沢家土蔵 (東京都あきる野市) 伊藤博文たちの夏島憲法以前に起草された憲法
日露戦争開戦時(明治37年/1904年)に 伊藤博文が金子堅太郎を説得したシーン
村内伸弘@ムラウチ ドットコム