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2007年 11月 12日(月) - 村内のぶひろ

山口県下関市:春帆楼(日清講和記念館)で伊藤博文が活躍
09.政治・社会 , 10.歴史・文化 , 11.旅行・温泉 , 14.格言・詩歌句全一覧(バックナンバー)

春帆楼

 >しゅんぱんろう ということばには
 >春のかがやきたつ 光彩がある

しゅんぱんろう。
とっても美しい響きですね。
伊藤博文が春の海の帆船を心に描いて名付けたそうです。



明治ニッポンが迎えた初めての大規模な対外戦争、
日清戦争の講和会議が開かれた場所が
ここ下関・春帆楼なのです。
(日清講和条約 / 馬関条約、下関条約)

shunpanro_06.JPG


shunpanro_01.jpg shunpanro_02.jpg

shunpanro_05.jpg shunpanro_07.jpg

当時の春帆楼は昭和20年(1945年)の下関空襲で焼けて
しまったそうですが、春帆楼横の日清講和記念館には
当時を偲ぶテーブルや椅子、机、条約調印書のコピー、
伊藤博文や交渉相手の李鴻章の遺墨などが展示されていました。

講和会議後にこれらの展示物は
一旦下賜されていた関係で焼けてしまった
旧春帆楼にはなく、かえって
今日のその会議の様子を伝えることができたそうです。

分散しておくというのは大切なことかもしれませんね、
ポートフォリオですよ、今風に言えばw


shunpanro_04.JPG

ポーツマス講和会議のときの小村寿太郎」と
並ぶ有名な歴史的シーンですね!

伊藤や陸奥は李鴻章を海(関門海峡)が見える側に座らせ、
会議の休憩時間などに清側(中国側)に見えるように
軍艦を勢いよく走らせたりしたそうです。
えげつないようですが、当時の日本の指導者の
国家経営に対する真剣な様子が伺えます。


shunpanro_08.jpg shunpanro_03.jpg

伊藤博文公と陸奥宗光伯の胸像

日清講和記念館の脇に
伊藤博文公と陸奥宗光伯の胸像がありました。
なかよく並んでいましたが、
特に後から眺めた二人の姿は
じつに微笑ましく、うらやましくも感じました。

日清戦争という大仕事を終えた男二人のうしろ姿、
いいですねぇ~(^^)
銅像は時々、うしろ姿の方が良いときがありますネ。
  ↓↓↓↓↓
鎌倉の大仏さんのうしろ姿(背中)


ちなみに、明治21年(1888年)、
時の内閣総理大臣だった伊藤博文が
この春帆楼で”ふく料理”を食べ、
「一身よく百味の相をととのえ」と絶賛、
太閤・豊臣秀吉によって禁止されていた
”ふく料理”を解禁したそうです。
そして、「ふく料理公許第一号」の栄誉を担ったのが、
ココ「春帆楼」だったということなのです。

※下関の人々は「ふぐ」と発音が濁ることを嫌ったそうです
  「ふく」は「福」、 「ふぐ」は「不遇」だそうです(^^)


shunpanro_10.jpg shunpanro_11.jpg

伊藤と陸奥の銅像の裏からはお隣の
朱塗り鮮やかな赤間神宮(旧阿弥陀寺)へ通じる小道があり
1分もかからず移動ができます。
そして、そこには
壇ノ浦の戦いで壇ノ浦の海底に沈んでいった
あの悲劇の幼帝・安徳天皇の御陵がありました。
(昔は安徳天皇の御影堂と呼ばれていたそうです。)


平清盛の妻の二位の尼(安徳天皇の祖母)に抱かれて
入水した安徳天皇、平家滅亡のまさにその瞬間になります。
 
「お婆さま、どこへ私を連れて行くのですか?」
まだ数え年で8歳の安徳天皇があどけない声で聞きました。

「この波の下に、極楽浄土というところがあるのですよ。
さあ、一緒にそこへ参りましょう。」 
二位の尼は、安徳天皇をしっかりと抱きしめて
渦巻く波の中へと消えていきました。

  今ぞ知る 御裳川(みもすそがわ)の 御ながれ
     波の下にも 都ありとは (二位の尼 辞世)


馬関(下関)は日本史を彩る数多の歴史の舞台なのです。

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 山口県下関市:春帆楼(日清講和記念館)で伊藤博文が活躍
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(参考)
酔題馬関旗亭壁(伊藤博文の漢詩) & ポーツマスの旗(伊藤博文の名場面)
 
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投稿者: 村内のぶひろ(ブログ社長)  2007年11月12日 23:33
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コメント

「春帆楼」
素晴らしい建物ですね
由緒があって 見に行きたくなります。

投稿者 ryuji_s1 : 2007年11月13日 08:54

ryuji_s1さん
コメントありがとうございました。

ryuji_s1さんのイタリア料理もおいしそうですね!
下関はイタリアのベネチアのごとく、
街に迫る関門海峡がきらめいて
とってもステキな街ですよ!

これからは“フク(河豚)”の季節でもありますし、
春帆楼さんは今も料亭としての
営業を本格的に営んでいまので、
ぜひ、下関阿弥陀寺町の春帆楼本店さんで
ふく料理に舌鼓を打ってみてくださいネ(^^)


●春帆楼 本店

〒750-0003
山口県下関市阿弥陀寺町4-2
TEL 0832-23-7181
FAX 0832-32-7980
URL http://www.shunpanro.com/

投稿者 のぶひろ : 2007年11月13日 09:59

・どちらにお住まいの方のブログかと思いきや,八王子とのこと。

・春帆楼のことを調べていて行き当たりました。2007年の記事ですので,もう3年半も経過していますが,これも何かのご縁,コメントさせていただきます。

◆文中掲載の画像に伊藤,陸奥を描いた油画の一部がありましたが,これの現物はご覧になったことはございましょうか。

・ブログ内を検索しますと,出てまいりませんので,お節介ながらお知らせ申し上げます。

・御地東京は神宮外苑(JR信濃町下車)の[聖徳記念絵画館]で常時見られます。

http://art.xtone.jp/m/archives/seitoku_memorial.php

◆この施設は明治天皇の遺徳を偲ぶために考え出された絵画館(テーマ・ミュージアム)で,1926年10月の竣工です。

・当時の画壇を代表する人々によって,明治天皇また昭憲皇太后の生まれてから亡くなるまでの様子が日本画,洋画各40枚(計80枚)に描かれています。

・絵はそれぞれ[3×2.7m]の大きなもので,なかなか迫力があります。

◆下関講和会議の絵は日本史の教科書にも掲載され,一般の記憶にもありますが,作者となるとほとんど知られていません。

・実は山口県出身の洋画家・永地秀太(ナガトチ・ヒデタ)の手になるものです。彼は山口県の洋画壇の草分けです。

・80枚の絵は,それぞれゆかりのある県市町村が寄贈したもので,春帆楼の日清講和会議の絵は[下関市]の寄贈です。

・ちなみに,[山口県]は萩出身の日本画家・松林桂月を起用して,戊辰戦争の“鳥羽伏見の戦”を描いたものを寄贈しています。

・この建物のことは以前から知っていましたが,外観と名称から何となく気にはなるものの,如何なる施設か分からず,訪れないままになっていたのです。

・それは館の名称に“明治天皇”という言葉を冠して[明治天皇記念聖徳絵画館]となっておればまだ分かり易いのですが,現状では難しいものがあります。

◆10年ほど前,明治天皇が岩倉具視の病気見舞いに訪れた時の様子を描いた『岩倉邸行幸図』を偶然目にし,現物を確かめる必要に迫られて訪れたのです。

・以来,上京する度に大抵訪れるのですが,残念なことに日本人よりも外国人の数が多いのです。

・館のある場所は旧代々木の練兵場跡地で,明治天皇の大葬の礼が行われた所です。館の裏手は大葬の礼の時,天皇の柩を安置した場所で,今もその場所に一本の木(欅?)が植えられていますが,驚いたことに周囲は駐車場になっているのです。

・つまらぬことを長々と綴り,失礼しました。また訪問させていただきます。

投稿者 半ば隠居 : 2011年4月 8日 18:31

半ば隠居さま
コメントありがとうございました。

自分自身でも忘れかけていた記事に長文のコメントを
いただけてとてもうれしく思っております。
ありがとうございました。

「聖徳記念絵画館」は僕も行ったことあります。
明治を彩る大きな絵画が壁面いっぱいにズラーッと並ぶ様は
圧巻ですよね!


下関講和条約の絵が永地秀太によって描かれたということは
初めて知りました。ネットで調べたら、永地さんは
日露戦争の日本海海戦敵前大回頭なんて絵も描いているみたいですね。

それから、岩倉邸行幸図。この絵は有名ですよね~
岩倉具視の合掌は例の孝明天皇の件に対してではないか?などと
解説している本を読んだことがあって、
幕末~明治にかけての日本の暗部を窺い知ることが
できる絵なのかもしれませんね。

いずれにせよ、
東日本大震災後の我らにほん人は
もう一度“明治の精神”、“維新の原点”に
立ち戻る必要があるように思っています。

半ば隠居さま、すばらしい情報
ありがとうございました。
 

投稿者 村内のぶひろ : 2011年4月 9日 10:15

【補足】
・言いもらしたこと。

(1)【伊藤や陸奥等の日本側が,敗戦国側の全権李鴻章を海の見える側に座らせた】ことと,
(2)【関門海峡に軍艦を走らせて,休憩時間中に清側に威嚇してみせた】という2点ですが,

(2)はともかく,(1)に作為はありません。(1)をそのように考えるのは,あまりにも現代的な考え方です。

・清は敗戦国とは言え,客人です。したがって,日本の文化では客人(ゲスト)に[床の間を背にした場所]を勧めることはあたりまえのこと。そして,そこは[上席]であり,[景色を眺めやすい]場所でもあるのです。

・日本は戦勝国ですから,ことさら(2)のようなデモンストレーションをする必要はなかったと思われます。

・しかし,そのようなことが語られるには理由があったのです。

・それは日清講和会議は,当初1895年2月“広島”で開かれることになっていたのです。ところが,事前折衝がうまく行かず,広島講和は決裂したのです。

・結果,再度の講和会議が3月“赤馬関(下関)”で開かれ,今回は決着(馬関条約)をみたということです。

・したがって,なかなか譲歩しない清側に威嚇の意味を込めて軍艦を走らせたということは,大いにあり得ることだと思います。

・そのような背景を知らないで(1)を聞くと,戦勝国の日本側が,敗戦国の清国側を軽く見て,[軍艦を走らせているのを見せるため]に,“わざわざ”海の見える席(側)を勧めたように思われるかもしれませんが,それは大きな誤解です。

・伊藤や陸奥は,江戸時代に生まれ,身分は低くとも,江戸という時代を生きた武家層なのです。
・したがって,いくら戦勝国という“奢り”はあろうとも,彼らの心の中には当然のことながら“武士道”精神が生きています。

・また,日本は幕末に西洋列強と結んだ“不平等条約”に長く苦しめられ,明治政府にとっては条約改正が大きな悲願だったのです。

・そういう日本ですから,必要以上に敗戦国を“貶(オトシ)める”ようなことはなかったと思われます。

・ちなみに,明治新政府になって日本が最初に結んだ条約は,明治21年(1888)メキシコと結んだ“日墨修好通商条約”ですが,これは平等条約でした。

・日本は,欧米列強のような姑息な真似はしなかったのです。

・メキシコも領土をスペインやアメリカから侵略され,結果“不平等条約”を押し付けられて,今のカリフォルニア州やテキサス州を無理矢理割譲させられたのです。

・当時はまだ日本人の心にも気高い“武士道”精神が生きていたのです。

@「日清講和会議,馬関条約」
http://gxc.google.com/gwt/x?q=%E6%97%A5%E6%B8%85%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&client=ms-nttr_docomo-jp&start=1&guid=on&hl=ja&inlang=ja&ei=kQagTei2GsWjkAXMv9jhAg&ved=0CAQQFjAA&output=xhtml1_0&rd=1&u=http://ja.wikipedia.org/wiki/%25E4%25B8%258B%25E9%2

@「日本とメキシコとの関係」
http://gxc.google.com/gwt/x?client=ms-nttr_docomo-jp&guid=on&output=xhtml1_0&u=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%25A1%25E3%2582%25AD%25E3%2582%25B7%25E3%2582%25B3&wsi=ac8e343a98d7a722&ei=HQ6gTYe-J4rFkgXE_7yVAg&wsc=tb&ct=np&whp=3292

投稿者 半ば隠居 : 2011年4月11日 10:49

半ば隠居さま
再度のコメントありがとうございました。

(1)(2)とも有名な話ですが、
半ば隠居さまの解釈は当時の世界情勢や
伊藤と陸奥の出自にまで触れられていて
すばらしい分析だと思いました。

とても勉強になりました。
僕も伊藤や陸奥のような気概を持って
頑張っていきたいと思います!

それにしても、“武士道”精神って
すばらしいですね!
  ↓ ↓ ↓ ↓
新渡戸稲造 武士道 「サムライのごとく気高く生きよ。」
http://murauchi.info/weblog/2007/02/post_172.html
 

投稿者 村内のぶひろ : 2011年4月14日 08:58

気楽にコメントしてください .。.:*・゚☆

保存しますか?


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