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家康と三成に会える関ヶ原古戦場めぐり

天下分け目の関ヶ原

関ヶ原ウォーランド」を見たあとに
今度は、関が原古戦場めぐりを行いました。

石田三成陣跡

(右)石田三成が指揮をとった笹尾山
 
最初は
石田三成陣跡」の笹尾山へ行きました。
田んぼの中にある小高い丘で、
柵が張り巡らされていて
まさに“臨戦態勢”のようで興奮しました(^^)


関ヶ原の合戦・決戦地!

次に三成の笹尾山から程近い
決戦地」へ向かいました。
東軍と西軍が最後にぶつかって死闘を演じた
まさに歴史的な場所になります。

ハッとしたのが、その狭さです。
両軍合わせて十数万人が対峙したはずなんですが、
この決戦地はあまりにも狭くビックリしました。

恐らく敵味方が入り混じり、
凄惨な肉弾戦になったと思われます。
組んず解れつで命懸けの戦いだったと思います。
やっぱり歴史は現場(地理)が大事で、
今回決戦地を訪れてよかったと思いました。


床几場・家康最後陣跡

次に陣場野
床几場・家康最後陣跡(家康首実検地)」へ回りました。
ここは徳川家康が最後に陣地を敷いていた場所(本陣)
なのですが、驚くのが三成の陣地との近さです。
ほんと目と鼻の先の距離なんです!!
家康の豪胆さとこの一戦に賭ける不退転の気迫が
僕にストレートに伝わってきました。

敵の真ん前って感じですからね!
激戦地のど真ん中ですよ!!
徳川家康ってのはやはり大した男です。
(当たりまえですがw)

400年前にこの場所で
徳川家康が東軍全軍の指揮をとっていたのかと思うと
背筋がゾクゾクしてきます。

400年の時を隔てて、
家康とのぶひろがまったく同じ場所に立っているというのは
考えてみると不思議な話で、
歴史というもののすばらしい面だと思います。


ちなみにここからちょっと歩くと
東首塚」もありました。
家康が御床几場で首実検を行った後の“首級(頭部)”を
丁重に埋けたところだそうです。
首実検(敵の身元を確認し、論功行賞を判断するための作業)が
終わると、敵味方なく弔いをしたんだそうです。

    (左)東首塚          (右)関ヶ原歴史民俗資料館


最後に
関ヶ原歴史民俗資料館」を見学しました。
関ヶ原の戦いで実際に使われた甲冑や、火縄銃などが
展示されていたり、戦いの状況がわかる各種資料が
展示されていました。
合戦の模様をドキュメンタリー風に解説してくれる
電気式のパノラマなどもありました。
よくまとまっているので合戦学習の拠点として
関ヶ原古戦場めぐりのスタート地点にすると良いかもしれません。
(僕は一番最後になってしまいました...)


時間の関係で、開戦地、西首塚、家康最初陣跡(桃配山)などは
見ることができませんでしたが、

400年前の戦国武将の気分になって
たのしい時間を過ごすことができました。
もちろん、その中で感じたことや知ったことを
今後の仕事や人生に生かして行きたいと思います。

家康や三成はもちろん
「小早川秀秋の裏切り」、「島津義弘の敵中突破」など
日本史に燦然とそびえる
天下分け目の決戦 「関ヶ原の戦い」をめぐる
人間模様にはいろいろと学べることが多いです!


★東軍大将
徳川家康(1542~1616)
織田信長、豊臣秀吉のあと、天下を支配。
合戦の3年後、江戸幕府を開く。

★西軍大将
石田三成(1560~1600)
豊臣秀吉の側近、豊臣五奉行の一人。
近江佐和山城城主。


▼今回の関ヶ原・近畿旅行コース
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(参考)

徳川家康の顰像(しかみ像) 徳川家康の顰像(しかみ像)- 三方ヶ原の戦いで脱糞し大惨敗

徳川家康公遺訓


村内伸弘@ムラウチ ドットコム

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