たのしかった香港 - 2階建てバス2階席から見た彌敦道(ネイザンロード)
キャセイパシフィック航空 CX-500便で
8/5(木) 午後9時頃、成田空港に無事帰国。
日本に帰ってきて、
まず、最初に感じたのは、
成田空港の売店が、ほとんど閉まっていたことです。
香港では、夜の10時、11時まで普通に
店は開いてますし、街中も人で溢れていました。
東京から離れた空港ということもありますが、
日本という国の表玄関が、この静けさ・・・
なんだか、わが祖国・ニッポンは
もう落ち着いちゃったのかな?といった感じが強くして
寂しかったです。
成田空港に喧騒はありませんでした。
活気はありませんでした。
住環境や家族構成の問題などもあるとは思いますが、
小売業者、サービス業者として
朝早くから、夜遅くまで営業をする香港のお店、
香港の人たちの心意気がまぶしい感じです。
眠らない街・香港。
不夜城・香港。
猛烈な漢民族のパワーを受けて、
強烈な国際都市のパワーを浴びて、
さあ、どうする?
今回の香港視察は、
物見遊山とは違う
根源的な問いかけを僕に投げかけてきたようです。
さあ、どうする?
▼平成14年(2002年) 11月、上海視察時の感想文 今から140年前の 文久2年(1862年)、長州藩の高杉晋作も上海に渡りました。 当時、晋作が見た上海は どのようなものだったのでしょうか?
「 今を去る七年前、古橋 朽崩するも支那人(中国人)再建するあたわず、 よってイギリス人この橋を建て、支那人は通行ごとに一銭を イギリス人に払う … 晋作 文久2年 5月13日の日記 」
「 支那人(中国人)は ことごとく外国人の便役となれり。 イギリス人やフランス人が、町を歩けば清人(中国人)は皆 避けて 道をゆずる。実に上海の地は支那(中国)に属するといえども、 英、仏の属地というも また可なり … 晋作 文久2年 5月21日の日記 」
結論から言うと 140年前の文久2年、上海で晋作が見たものは 西欧列強に侵食される中国の惨状でした。
そして、それから 140年後の平成14年、のぶひろが上海で見たものは 改革・開放政策のもとで価値感を大転換、大きく変容し西洋や日本を追い抜き、 世界に燦然と輝こうとしている中国と中国人の姿でした。
140年という歳月は 途方もなく長いモンですね。 以上、『 平成の遣唐使 』 のぶひろの日記でした。
おつきあい本当にありがとうございました。 シェイシェイ(謝謝)
・平成14年(2002年) 11月、上海視察 最終日・まとめ
▼今回の香港視察
・香港旅行 - はじめに
・香港旅行 - 香港旅行 - おわりに
(参考)
・のぶひろ、グルメの島・台湾へ 初日
村内伸弘@ムラウチ ドットコム♣
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