マレーシア凛凛 / 伴 美喜子 めこん
2002年5月の本ですが、
Mikko Talks on Malaysia (著者:伴 美喜子さんのホームページ)に掲載されている
1999年~2002年頃のコラムをまとめた
エッセイ集になっていました。
世界有数の親日国であるマレーシアについて、
あふれる思いを書き綴っている本を
読むことができて、僕はとても明るい気持ちになりました。
やっぱりその国のことが好きな人の文章というのは
読んでいて、心地よいです。読むコラム、読むコラムが
すべて、マレーシアを愛する心から書かれていることが
この本を読んですぐにわかりました。
“愛する”というよりも“慈しむ(いつくしむ)”という
表現の方があたっているかもしれません。
マレーシアとか、マレーシア人に対するというよりも、
人間に対する“慈しみ”や“やさしさ”が
行間からにじみ出ている素晴らしい本でした。
伴さん、テレマカシ(ありがとう)!
中でも、特に
1992年の日本語弁論大会優勝作品で
マレーシア人少女によって語られた
「おじいさんと広島」というスピーチの
全文載っていましたが、
これが実に素晴らしいものでした。
日本とマレーシアの相互理解のため、
長文ですが、ここに引用させて頂きます。
「おじいさんと広島」
みなさん、こんにちは。私はクアラ・セランゴールから来たジュリア・イスマイルです。 今、クアラルンプールのパン・パシフィック・ホテルの「けやき」というレストランで 働いています。1990年4月から1991年2月まで日本の広島女学院高校に 1年間留学しました。
日本に行く1週間前に、私はおじいさんとおばあさんのところへ行きました。 「おじいさん」 「なんだ」 「私は外国へ留学しますよ」 「そりゃ、いいね。で、どこの国だね」 「日本です」 「それはいけない。だめだ。日本は悪い国だ。マレーシア人は戦争の時、 日本人にひどい目にあわされた。日本軍は北の方から突然せめてきた。 みんな林の中に隠れて生活した。特に可愛い女の子のいる家は、絶対に 見つからないように逃げ回った。それでも彼らは見つけ出して悪いことをした」 「私の妹はお腹に赤ちゃんがいたから、見つかって殺されないように 林の中に隠れていた。すぐそばを日本の兵隊の靴音がして、とても怖かったが、 息を殺して隠れていた。私の友達は勇敢だったから、ひとりで刀を持って 飛び出して、銃で撃たれて死んだんだ」
「おじいさん、それは昔の話ですよ」と、父が言うと、 「若い者に何がわかるか!人生は楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。 私はあの時のことを忘れない。ほかの孫にも絶対に行かせないぞ!」と 言いました。 マレーシアでは年上の人に口答えをしてはいけないので、私は黙って 聞いていました。 「あれは昔のこと。ジュリア、行って来なさい」という父の言葉に励まされて、 飛行機に乗りました。
日本に行く前、私は日本の文化について何も知りませんでした。 私が知っていたのは、マレーシアのテレビで見た「おしん」というドラマの中の 日本人でした。日本の食べ物はおにぎりで、服装は着物でした。 今も同じだろうと想像していました。 ホーム・ステイ先の家で初めて食事をした時、「あれっ、おむすびじゃない!」と 思いました。その日は鶏肉のスープやいちごなどいろいろな食べ物がテーブルの 上に並んでいました。ちょうど私の18歳の誕生日で、ホスト・ファミリーは プレゼントを用意して私を迎えてくれました。私は嬉しくて、初対面の時から 涙を見せてしまいました。 うちから学校まではバスと汽車で1時間半かかります。朝5時に起きて、 帰りは7時すぎです。私はこの通学の時間をとても楽しみにしていました。 朝はとてもすがすがしく、夜は家々の灯かりがポツポツと汽車の窓から見えます。 何とも言えない気分になるほど、美しいのです。 4月から広島女学院に通いはじめました。みんなが、 「平和公園に行ったことある? まだなら、いっしょに行こうか」と、言いました。 私は、広島に原爆が落ちたことも知りませんでしたから、もちろん平和公園の 意味もわかりませんでした。普通の公園だと思いましたから、 「いいよ、いつでも行くよ」と答えました。 5月に初めて原爆資料館、公園と川、そして原爆ドームを見ました。 それでも、まだよくわかりませんでした。 私は海外の人たちに8月6日のことをラジオで伝える国際プロジェクトに参加し、 8月6日にまた平和公園に行きました。たくさんのおじいさんやおばあさんが 花や折り鶴を持って公園に来ていました。川のそばに立って、ひとりで泣いて いる人もいました。 私のところへ一人のおじいさんが来て、 「どこからきたん」と、尋ねました。 「マレーシアからです」と言うと、おじいさんは、 「ごめんなさい」と謝りました。私は何のことだかわかりませんでした。 夜、灯篭流しを見ているうちに突然たくさんの質問が浮かんできました。 「私は東京や横浜や北海道ではなくて、どうして広島に来たんだろう。 これはどういう意味なのか。この公園で私は何をしたらいいんだろう。 ドームの修理や保存にどうしてあんなにたくさんお金が集まるのだろう」 そして、また突然、答えの手がかりがひらめいたのです。さっき会った おじいさんは戦争の時、日本がマレーシアにしたことを「ごめんなさい」と言ったんだ。 私は、灯篭を1つ流しました。その灯篭にはこう書きました。 「この灯篭はマレーシアに行きます。おじいさん、おばあさん、わかってください。 平和公園で私は日本人と一緒にお祈りをしました。私たちの心は1つです」と。 「2月に私はマレーシアに帰ります。今度はきちんとおじいさんとおばあさんに 答えられると思います。今、日本は違います。あれは昔のことです。 この写真を見て下さい。広島でもたくさんの人が死にました。 赤ちゃんや子供もいます。 今でも原爆症で死んでいる人もいます。日本人はマレーシア人と同じ気持ちです。 私は、他の都市ではなく平和都市広島でホームステイをしたお陰で このことがわかったような気がします」と心の中でつぶやきました。 地図をみると、マレーシアと日本はとても近いです。でも、お互いにもっと 理解しなければならないことが、まだまだたくさんあります。私は新しい世代の ひとりとして、マレーシアと日本の友情のために役立ちたいと思っています。 私は日本の広島で会った人たちといっしょに学んだことを決して忘れません。 どうもありがとうございました。 最後に、著者:伴さんのご自身の言葉を挙げて、 “椰子の葉そよぐ常夏の国” マレーシア行きの目標としたいと思います。 ますます、“LOOK EAST”どころじゃない、 もっともっとマレーシアの人々から学ばなければ (僕が読んだマレーシアの本) ・地球の歩き方 マレーシア ブルネイ '11~'12 ・マレーシア凜凜 / 伴 美喜子 ・アジアの大都市[3] クアラルンプル / シンガポール / 大阪市立大学経済研究所[監修] ・ASEAN先進経済論序説 / 三木 敏夫 ・マハティール政権下のマレーシア / 鳥居 高編 アジア経済研究所 ・立ち上がれ日本人 / マハティール・モハマド (参考) ・マレーシア 基本情報 概要|地球の歩き方 ・クアラルンプール日本人会 ・マレーシア日本人商工会議所 ・クアラルンプール日本人会日本人学校 ・ペナン日本人学校 ・コタキナバル日本人会通信 ・コタ・キナバル日本人学校 ・ジョホール日本人会 ・マレーシア政府観光局公式サイト ・マレーシア政府観光局 オフィシャルブログ ・マレーシア航空 ・在マレーシア日本国大使館 ・マレーシア - 外務省 ・マレーシア - 海外安全ホームページ ・マレーシア - ジェトロ(日本貿易振興機構) ・マレーシア - Wikipedia 村内伸弘@ムラウチ ドットコム♣ 「マレーシア旅行」 …人気ブログを見てみる 「マレーシア株」 …人気ブログを見てみる ▼世の中いろんな人がいる ☆\(^▽^ )/ にほんブログ村 マレーシア情報ブログ村 を見る きょうのキーワード:マレーシア - マレー半島 - クアラルンプール - マレーシア料理 - マレー語 「社長ブログ」 バックナンバーを見る